四月下旬の日記

四月二十五日、今月最後の土曜日。なのだけど、先週から仕事が自宅待機となったこともあり、曜日の感覚がいまいちよく分から無いことになっている。それにしても四月があっという間に終わってしまうようで、ぼんやりした気持ちになる。
このまま、ぼんやりと日を過ごしてしまうと、いろいろなことを置いていってしまう気がするので、ここで一度今年に入ってからのいろいろを思い出そうと思う。もう三分の一を終える2020年。

年末から体調をめずらしく崩したまま、年明け。咳と喉の痛みがひどく続いた。仕事始めは、一月三日のブラジルコーヒーで、ヘトヘトになる忙しさであった。
一月中旬には台湾へ。星さん夫妻や名古屋のひとたちとともに過ごした。帰国後、ブラジルのママさんに「中国でよくわかんない肺炎がはやってるんでしょ?大丈夫?」と聞かれて、そうかそんな病気が…とコロナの存在を初めて知り、のんきなものであった。一月末で、今まで勤めていたリラクゼーションの店と、パソコン入力の仕事を終える。
二月初旬は求職期間で、次の仕事が三月スタートになったため、ぽっかりあいた二月下旬は沖縄へ一週間ほど。空港の発着を知らせる掲示板を見ると、中国行きの便がほとんど欠航となっていることを確認できて、重たい気持ちになる。中国へは十年ほど前に三週間ほど滞在したことがあり(雲南省というだいぶ西の省)、身近に感じる国だった。
二月二十七日、愛知県の小中高校が春休みまで休校の措置をとることになったというニュースを実家で観る。年齢の若い人たちには感染力が弱いということや、かかっても重症化しにくいという情報をみていたため、ずいぶん思い切ったことをするなあ、共働きの家庭はどうなるのだろうと思った記憶がある。
また、二月下旬に大阪のライブハウスで集団感染が発生した事案から、ライブハウスに対する風当たりが強くなり、三月以降のライブイベントの中止も増えてくる。自分は三月二十八日のライブを控えていたが、決行のかまえでいた。世で言われる『自粛』という文言への抵抗感が勝っていたように思う。
三月に入り、新しい職場で研修が始まる。仕事の内容は、小中学校の卒業アルバム製作および校内イベントの撮影や写真販売であり、一番初めの仕事としては入学式と学級写真の撮影販売となるため、その流れを教えていただく日々だった。初旬のころは、春休みがあければ学校は再開されるのではないかと楽観的だった。しかし、だんだんと、その見通しは難しそうであるということを実感していくことになる。
三月八日、自分の参加する予定であった東京ビッグサイトでのオタクイベントの延期が決定する。イベント運営会社の方達はぎりぎりまで実施する方向で、サーモグラフィーの導入や換気の励行を考えていたようだったのだけど、結局はビッグサイト側からのNGがでたのだった。
いろいろな催し物が、中止、延期となっていく。自分の音楽の予定としては、六月頃にログメンとの関西レコ発(二年越しの)を考えていろいろと動いていたのだけど、この先の状況のあまりのわからなさに、延期することにしましょうと意見を合わせたのだった。三月二十八日のライブイベントは開催のはこびとなったが、自分の過去に作った歌といまの現状の乖離に、どうにも落ち着かないきぶんになる。
四月に入り、学校再開とはならず、職場では撮影日の組み替えをなんども行うことになる。フリーのカメラマンさんたちは仕事がなくなってとにかく大変であるという話を聞く。飲食店はテイクアウトに切り替えるところが多くなった。自分の身の回りのあらゆるお店の環境が変わっていくこと、それに対する補償がみえないこと、またその他、以前からの政府のあまりにもひどすぎる所業(赤木さんの手記が公開されたのは三月下旬のことだ)にどうにも疲れ、四月の第二週目あたりはだいぶん参ってしまっていた。この病気の特性である、潜伏期間のながさと、その間が一番感染力が強いらしいということ、自分の知らないうちに誰かを感染させてしまうかもしれないという恐ろしさ。
仕事は第三週の途中から自宅待機へと切り替わり、ひたすら部屋で過ごす日々となる。毎日参ってしまいながらも、よくもわるくも慣れて鈍感になってくるもので、第四週のなかごろからはだいぶん落ち着いて朝から晩まで過ごすことができるようになった。部屋にある植物たちの春になってどんどんと成長していくようすに、かなり救われた。

最近観た映画(DVDだけども)のなかでは、『こうのとり、たちずさんで』が非常によかった。映画でしか体感できない美しい時間だった。